社会がその参加者に対して何らかの公平性を達成すべきということに異論を唱える人は少ないと思いますが、我々は本質的な多様性を有する中で何が公平であるべきなのでしょうか。ある尺度で公平性を達成した場合、論理的に考えて他の公平性の尺度を同時に達成することはできません。「公平な社会」という言葉は何を公平にするのかがとても重要になります。まず、公平性の尺度はどうあるべきなのでしょうか。
社会の総量を対象とした考え方としては、人の重みに対する公平性、お金の価値に対する公平性、各人の幸福の増分に対する公平性などの考え方があり、これらの公平性を担保した上で、その単位に対する総量 (賛成する人の数、貨幣の総量、幸福の総量など) の最大化を目指す社会が正しいとする考え方 (民主主義、資本主義、功利主義など) があります。
社会の総量の最大化を目指す考え方は一面では合理的ですが、民主主義において少数派の利益が守られないことや資本主義における貧富の格差など、課題が顕在化している通り問題がありそうです。総量の最大化だけでは、社会が直面している分布の不公平を取り扱えないし、私たちの多様性も捨象しています。私たちが格差など不公平の問題を解決していくためには、より多様性を考慮した個人の公平性に焦点を当てた尺度で考えていく必要があるように見えます。
それでは個人を対象とした公平性の考え方を見てみましょう。まずは結果としての幸福の公平性が思いあたります。公平な幸福は一見して究極的な目標のようにも見えますが、幸福は持続的な差別がある場合に不公平が分からなくなるという課題があります。例えば持続的な身分差別が固定化した世界を考えた時に、低い身分に置かれた人も小さな改善に幸福を感じるため、幸福の公平だけ見れば明らかな差別的待遇があっても放置してよいという結果になりかねません。見方によっては一定の支持を与えるこの結果は、私たちにとってすばらしい新世界と言えるでしょうか。社会の公平性を向上するための実際的な尺度としての目線で見ると、この考えには難しさがあります。
幸福のような心理的な尺度が実際的に社会の公平性を評価できないとすると、どのような尺度で公平性を捉えるべきなのでしょうか。私たちが本質的に多様性を有していること、そして自らその前提条件を変えられないことを踏まえると、自ずと公平を担保する尺度も多様性を反映した尺度の束の全体となっていく必要があるでしょう。
少し見方を変えますが、達成すべき公平の焦点は「成果の公平性」と「成果を達成する前提条件の公平性」のどちらに置かれるべきなのでしょうか。成果を達成する前提条件の公平性を有する人には、未来を選ぶ自由が付与されているとも考えられます。だから、ここで考慮すべきは未来を選ぶ自由の価値かもしれません。
もし自由がそれ自体、公平性と並んで重要な価値を持っているとすると、公平性の焦点は自由をも包含する「成果を出すための前提条件」になると考える人も多いのではないでしょうか。(もっと極端に言えば、人は自ら不幸になる自由さえも欲しているかも知れません)
上記を踏まえると、私たちの社会として本質的な多様性を反映した多様な尺度の束の全体で、成果を出すための前提条件としての公平性、アマルティア・センの言い方に倣えば「自由の公平性」を達成していくべきという考え方に一定の合理性があるように感じられます。